正月年始 | 一月一日 |
節分会 | 二月三日 |
春彼岸講 | 三月二十一日 |
盆参会 | 七月十四日、七月十五日 |
秋彼岸講 | 九月二十三日 |
おしまい講 | 十一月第三日曜日 |
御本尊 延命地蔵菩薩
宗 派 真言宗豊山派
真 言 おん か か か びさんまえい そわか
御詠歌 南無大悲 抜苦与楽の 地蔵尊
黄金の泉 湧きて溢ふるる
当山の創建、開祖は不詳であるが、刈羽村大字正明寺字地蔵の城に創建されて地蔵院と称し、境内から湧出する清水が豊富清冽で、正に黄金の価という所から金泉寺と名づけられたという。
火災焼失後、承安三年(1173)再建したが、飛砂のため集落は宮田に集団移動、金泉寺も寛文三年(1663)当地(旧西中通村大字長崎)に移転。その後、元禄八年(1695)、享和二年(1802)に再建。大正十四年(1925)瓦屋根に改修、昭和四十年檀信徒会棟、庫裏を新築。平成十三年本堂屋根改修。
当山開基は、火災等で過去帳が焼失しており不明であるが、木曽義仲公縁の寺であるという伝えもある。
寿永3年(1184年)1月20日に木曽義仲は後白川法皇の命を受けた源頼朝によって遣わされた義経の命を受けた木曽一統に粟津(兵庫県)で急襲される。義仲はわずかな手勢しかおらず、やむなく乳兄弟今井兼平と共に自害をを計るが、顔面に矢を受け、その上愛馬が田の泥に足を取られ石田次郎為久に討たれ壮絶なる最期を遂げる。その後、側室がわずかな手勢と共に落ちのびた先が、越後国刈羽郷里正明寺といわれている。
側室は義仲公のお子さんを宿しておられ、お生まれになるも幼くして亡くなる。幼くして亡くなった我が子を不憫に思い、そのお子さんの菩提を弔うために建てられたのが、延命地蔵様を本尊とする金泉寺であったと言われている。寺の名前のいわれは、落ちのびた里には、きれいな黄金のような水が湧いて田畑を潤していたので「金泉寺」と名付けた。開創からおよそ830年が経過している。
火災焼失後、承安3年(1173)再建したが、飛砂のためは宮田に集団移転、金泉寺も寛文3年(1663)当地(旧西中通大字長崎)に移転。その後、元禄8年(1695)、享和2年(1802)に再建。大正14年(1925)瓦屋根に改修、昭和40年(1965)檀信徒会館、庫裏新築。平成13年(2001)本堂屋根改修。平成19年(2007)中越沖地震で本堂、庫裏被災、平成20年本堂改修、庫裏新築再建。平成23年(2012)さとなめ地蔵尊改修、お堂新築。
お子さんを亡くした側室も後を追うようにお亡くなりになる。その側室の菩提を弔うために建てられたのが朝日寺(ちょうにちじ)である。その名の由来は、木曽義仲公は、「朝日将軍」とも言われていたことから「朝日」の名をいただいた。
側室と落ちのびた手勢を率いたのが、小国源左衛門正明であった。その正明も亡くなり「正明寺」という寺が建てられた。
金泉寺、朝日寺は、時代を経て境内地に砂丘の砂が入り込み移築される。金泉寺は移築先で火災に遭うなどして江戸末期に現在地移ったといわれている。因みに朝日寺は、一時信州に移るも再び越後の地に戻り、長岡在の現在「朝日山酒造」の上に移っている。朝日山酒造の朝日は、朝日寺に由来するといわれている。
正明寺という寺は、存在していない。正明寺という地名が残っている。寺の名残として正明寺の神社には、以前護摩壇があり、神社で護摩祈祷を行っていたという歴史がある。護摩祈祷は、中越沖地震の前まで行われていた。その護摩祈祷は、金泉寺の歴代住職が行ってきたと言われ、震災で護摩壇が壊れ途絶えてしまったが、小住もそこで護摩祈祷をさせて頂いたことがある。いつかは復活させたいと念願している。
金泉寺の「さとうなめ地蔵さん」は、その口の回りが黒く変色しています。古くから、この地蔵さんに願をかけ、願い事が叶うとお礼に砂糖をなめて戴いたということです。今でも、時々誰がお供えしたのか、甘いお菓子が置いてあります。現在は、受験の時期になると、熱心にお願いをする若い人が訪れます。時代は変わっても素朴な願いを聞き続けてきた「さとなめ地蔵さん」は、今でも静かに微笑んでいらっしゃいます。歯痛にも御利益があると言われています。
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